激しい熱波がこの田舎町を襲う季節、私は塾からの帰り道でとある発見をした。
なんとなく普段とは違う道を通っていたら、丘の上の方にエメラルドグリーンの屋根の洋館が建っているのを見つけたのだ。私はあそこに行きたいという衝動にかられた。幸いにも日が落ちるまでは時間があるので、近くまで行ってみることにした。
近くで見た洋館は非常に立派だった。真っ白な壁は汚れひとつなく、遠くから見えたエメラルドグリーンの屋根もより鮮やかに見えた。私がしばらく門前で見入っていると、中の方から人がこちらに向かってきた。それは、ワイン色の洋服を着た金髪碧眼の人形のようにきれいな少女だった。
「あら、お客さんかしら。珍しいわね」
少女はそう言いながら門を開けた。
「丘の下からこの家を見つけて。それで近くで見てみたいなって思って……」
「そう。よかったらお茶しない?今ちょうど、アップルパイが焼けたところなの」
「え、それは悪いよ」
「ここには誰も来ないから、私、毎日退屈してるの。ついてきて」
そういうと、少女は歩き出した。いきなり押しかけておいて申し訳ないと思ったが、ここで帰ってしまうのもよくなさそうだった。
少女に言われるがままついていくと、広いリビングに案内された。天井には豪華なシャンデリアがぶら下がっており、大きなガラス窓から入る光を反射してキラキラしている。真ん中にはガラスのテーブルが鎮座しており、それを囲むようにアンティーク調の椅子が四つ並んでいた。私と少女は向かい合うように、その椅子に座った。
少女は突然、パチンと指を鳴らした。すると、ガラスのテーブルに二人分のティーカップがコトンと現れた。そして宙に浮いたポットが勝手に紅茶を入れていく。私はその様子に言葉が出なかった。
「アップルパイも出さなきゃね」
少女がそういうと、まんまるなアップルパイがテーブルの真ん中に現れ、ナイフが勝手に切り分けていった。
「さあ、召し上がれ」
いきなり起こった不思議な現象に驚くしかなかった。
「何もしてないのに紅茶とアップルパイが出てきたよ?」
「ええ、私が出したの」
少女は当たり前のことのように答えた。
「どうやって?」
「魔法を使っただけよ」
「君って魔法使いかなんかなの?」
少女は紅茶を一口すすって、ちょっといじわるそうに笑った。
「ふふっ、知りたい?」
「うん」
「私ね、もともとはただの人形だったけど、魔法使いに人間にしてもらったの。」
どうりで人間離れして美しいわけだ。
「それで、私が魔法を使えるのも、魔法使いに少しだけ力をわけてもらったからなの」
「魔法使いなんているんだね」
「ええ。ここのすぐ近くの山奥にずっと昔から住んでいるらしいわ」
「そうなんだ」
この少女といい魔法使いといい、まさかこの町にこんな不思議な人たちが住んでいるなんて、一切知らなかった。
「ねえ、よかったらさ、君の魔法をもっと見せてくれないかな」
正直、初対面でこういうことを言うのは失礼だと思ったが、私は少女のこと知りたいという欲求を抑えられなかった。
「いいわよ。とっておきのを見せてあげるわ」
少女は私の頼みを快く聞いてくれた。そして、私たちは宇宙空間に放り出され、重力から解放された。
「えっ嘘⁉︎」
「大丈夫、全部幻よ」
少女は慌てる私の肩を持ち、落ち着かせてくれた。すると、一匹の魚がこちらに泳いで来るのを見つけた。いや、一匹だけじゃなかった。気がつけば私たちはたくさんの大小様々な魚に囲まれていた。まるで水族館の水槽の中にいるようだった。
「さあ、行きましょう」
シェルはそういうと私の手を取り、魚の群れの中へ進んだ。泳いでいるようなのにちゃんと息ができるので、不思議な感覚になった。
「これ、見ててちょうだい」
少女はそう言うと、近くを泳いでいた小さい魚に指を触れた。すると、魚はキラキラと光る粒子になって散った。私もそれを真似て近くの魚に触れた。
「……きれい」
「どう?私の魔法は」
「君すごいね!こんなことができるなんて」
少女はあまり褒められ慣れていないのか、少し照れたようだった。肌が白いので、頬が赤くなるのがよくわかった。
少ししてから、少女は言った。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いてなかったわね」
「私の名前はミナミ。君は?」
「私はシェルよ。シェル・ウェスト」
シェルはそう言った。
「そろそろ帰りましょう。あんまりここにいたら、紅茶が冷めちゃうわ」
「うん、そうだね」
宇宙空間が割れて、私たちは光に包まれた。そして、気づいたときにはもといた部屋で椅子に座っていた。
「ミナミ、今日のことは誰にも話さないで欲しいの」
「もちろん。二人だけの秘密だよ」
さっきまでの不思議な体験の余韻と、誰も知らない秘密を共有する優越感とで、私はどうにかなりそうだった。興奮する頭を一旦落ち着けようとして紅茶を飲んだが、まだ完全に冷め切ってはいなかった。
*
あれから私はほぼ毎日洋館に通い、そのたびにシェルは私を紅茶でもてなしてくれた。毎度私ばかりいろいろ貰っては申し訳ないので、手土産にお菓子を持って行くこともあった。小学生のお小遣いで買えるお菓子なので上等なものではないが、シェルにとっては珍しいらしく、喜んで食べてくれた。
そうやっていくうちに、私たちは少しずつ互いのことを知っていった。シェルは、百年以上この洋館に住んでいたことや、人形時代の持ち主について話してくれた。私は、学校のことや、冬に待ち受けている受験のことを話した。家の居心地が良くないことなんかも話したが、シェルは真剣に聞いてくれた。
*
そして気がついたら、私たちが出会ってから十日ほどが経っていた。
今日の私は塾がないので、朝からシェルのところの書斎で勉強していた。家は母がうるさいが、ここは私たちが喋らなければ静かだ。おまけに、難しそうな本が壁一面を埋め尽くしているので、そこにいるだけでなんだかかしこくなったような気になれた。
勉強に一区切りついたので私は伸びをした。
「お疲れ様。ミナミは毎日お勉強してえらいわね。そろそろ休憩しない?」
少し離れたところで本を読んでいたシェルは、私のもとに来た。
「そうだね」
私たちはリビングへ向かった。
シェルは紅茶を一口飲んで、コトンとソーサーに置いた。
「ねえ、ミナミ」
「どうしたの?」
「一つお願いがあるの。聞いてくださる?」
シェルはやけに真剣な表情だった。私もティーカップを置いた。
「実は私、寿命が近づいてきてるの」
「えっ」
あまりにも唐突だった。
「前に私は魔法使いに人間にしてもらった言ってたわよね?」
「うん」
「そのときかけてもらった魔法がもうすぐ解けようとしてるの」
「もし解けたらどうなるの?」
「ただの人形になるわ」
そんなことを言われても、シェルは見た感じ出会った当初からなんの変わりはなく、とても寿命が近づいているようには見えなかった。だがそれはそれで、ある日唐突に彼女ともう二度と話せなくなってしまうのかと考えると、なんだか怖くなった。
「どうやったら君の寿命を延ばせるの?」
私はそう聞いたが、シェルはただゆっくり首を横に振った。どうやらそんな都合のいいことはないようだ。
シェルは私の目をまっすぐ見つめた。
「……最期はあなたに看取ってほしいの」
「そんな……」
私が動揺している横で、彼女はひどく落ち着いていた。怖くないのだろうか?そう思っても、私には彼女の気持ちが分からなかった。
冷めないうちにと、シェルは紅茶を飲んだが、私はどうしても飲む気になれず、ただ紅茶に写る自分の顔を覗くことしかできなかった。
*
それから私はシェルのことが心配で仕方なかったので、時間が許す限りは洋館にいることにした。シェルが言っていたことは全部冗談だろうと思いたかった。しかし、そのときは思っていたより早く来てしまった。
ずっと猛威を振るっていた太陽分厚い雲に隠れていた。おまけにその日の洋館はやけに静かで、嫌な胸騒ぎがした。
「おはよう」
私はそう言ってリビングのドアを開けたが、普段ならここにいるはずのシェルがいなかった。
どこにいるのだろうかと思いながらキッチンの方に行ってみると、彼女はキッチンの棚にもたれかかって、ぐったりしていた。彼女の周りには、割れたティーカップやソーサーの破片が散乱している。
私はシェルの肩を揺らした。
「シェル!どうしたの⁉︎」
しばらく反応がなかったが、やがて彼女はゆっくり目を開けた。濁りのない宝石のような目がこちらに向けられた。
「……ミナミ……?おはよう……」
まだ完全に魔法が解けたわけではなかったようだ。私はほんの少しだけ安堵した。
「……ごめんなさい。ミナミには……心配かけちゃったわね」
シェルの声は普段より細くてノイズがかったようで不安定だった。
「ううん。謝ることはことないよ」
「そう……私、こんなのになっちゃったから……あと、ほんの少しで、あなたとはお別れね」
「そうだね……」
シェルはおもむろに立ちあがろうとしたので、私は彼女を支えた。
シェルは言った。
「ねぇ……最後にとっておきのを見せてもいいかしら……?」
「え……それって」
シェルは苦しそうながらにも笑みを浮かべた。
気がついたら私は、何もない真っ白な空間で、ポツンとある真っ白なテーブルを前に座っていた。向かいにはシェルが座っていた。先ほどとは打って変わって元気そうだった。
「こんな魔法を使って、大丈夫なの?」
私はシェルが心配になって聞いた。
「どうせもうすぐ終わるんだから、気にしなくてもいいわよ」
「そっか……」
出会って最初に見せてくれた宇宙空間とは違って、ここは不気味なほど静かだった。
私はそんな静かさを埋めたくて、シェルに聞いた。
「ねえ、シェルの寿命は本当に伸ばせないの?」
シェルは一瞬驚いたような顔を見せた。
「……?どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、シェルが前言ってたでしょ。あの洋館の近くの山奥に魔法使いが住んでるって」
「ええ」
「その魔法使いにもう一回魔法をかけてもらえば……」
「ふふっ」
シェルはいきなり笑った。
「ミナミって勘がいいのね。たしかにあの魔法使いに頼めば寿命を伸ばすことはできるわ。」
「それじゃあなんで……」
「私、魔法が解けちゃうことより、一人ぼっちになっちゃうことの方がよっぽど怖いの」
そのときのシェルの表情はやけに大人びていた。彼女は、見た目こそ私と同じくらいの年の少女だが、実際には私の何倍もの時間を生きてきたのだ。私にはない経験をたくさんしてきたのだろう。
「けど、シェルには私がいるよ。もう一人ぼっちじゃない」
「たしかに今はそうね。けど、あと10年もすれば、そうはいかなくなるわよ。あなたが大人になれば今よりもきっと忙しくなって、私のところに来れなくなるわ。そうしたら、また長い時間を一人ぼっちで過ごさないといけないじゃない」
「けど……」
「それに、少なくともあなたの寿命よりは生きたの。もう十分よ」
私には、そう言うシェルのことが投げやりで身勝手なように感じられた。
「……シェルは私とお別れするのが寂しくないの?」
「……」
「私は……私はすごく寂しいよ。だって、私はシェルのことが大好きなんだもの」
私がそう言った瞬間、白い空間のあちこちにいろんな色が現れた。
「君と過ごした時間は、全部一生忘れられないくらい楽しかったよ。だから、もうあんな時間を過ごせなくなると思うとすごく寂しいし、怖いんだ……」
現れた色は、水に落ちた絵の具みたいにどんどん広がっていき、空間を覆い尽くした。
シェルの目には涙が浮かんでいた。
「……やっぱり私も寂しいわ」
シェルがそう言うと、色のついた空間に亀裂が入り、砕けていった。
私たちは雲より高い上空に放り出され、そのまま重力に従って落ちていった。
「もうそろそろ限界みたいね」
「そんな……もうおしまいだなんて」
下界を見てみると、滲むような光が無数に散らばっていた。
「ミナミ、今までありがとうね」
シェルはそう言って、私を抱きしめた。私もシェルの背中に腕をまわした。
「こっちこそ、シェルに出会えてよかったよ。ありがとう」
「それじゃあ、さようなら――」
気がついたときには、私は洋館のリビングのアンティーク調の椅子に座っていた。あたりを見回したが、私以外に誰もいないようだった。ふと、膝に抱えていたものを見てみると、それはワイン色の洋服を着た金髪碧眼のきれいな少女の人形だった。