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第1話、藁を掴む思いで願った

 今から少しだけ昔。天から1柱の神様が降りてきて、広い海原の上に大きな都市を作った。神様はこれを海上都市レユアンと名付けた。やがて神様の導きでやってきた人々がここに住み、レユアン人と名乗った。彼らは外界から持ち込んだ文明の技術を使い、長らく平和に過ごしていた。

 しかしある日、全身真っ黒な怪人が街中に現れた。街を壊しレユアン人を襲う怪人を、彼らは「インサニティ」と呼び恐れた。この由々しき事態を見た神様は、ごく一部のレユアン人にインサニティを倒せるだけの力を与えた。彼らは異能者と呼ばれ、多くのレユアン人のヒーローとして、日々インサニティとの戦いに身を投じた。

 それでも、人々は自分とは違うもの、理解できないものに対して恐怖を抱いた。いつしか、多くのレユアン人は異能者を怖がり、除け者にするようになった。そして、異能者はインサニティとの戦いを避け、自身の力を隠すようになった。

 今でも大半の異能者がレユアンの街に溶け込み、日常を送っている。しかし、持てる力を制御できずに社会からあぶれる異能者もいる。

 たとえば私みたいに。

 

 *

 

 すっかり日も沈み、街頭やビルの明かりが街を照らす午後6時。あいにく空の機嫌は悪いらしく、人々は傘を差して急ぎ足で土砂降りの雨をかき分けていく。雨に濡れたアスファルトは明かりを反射している。

 私はそんな街の様子をぼーっと眺めていた。持ち物はリュック1つに詰まった最低限のものだけ。あいにく傘なんて持っていない。雨を凌げるような場所もないので、私は無抵抗に雨に打たれるしかなかった。

 さっさと家に帰りたい。しかし、残念ながら私にはもう帰る場所はなかった。ただでさえ少ない人間関係も、ただでさえ低い地位も全部なくしてしまった。

 私が日常だと思っていたものは、ほんの些細なことで一瞬にして壊されてしまった。

 これからどうすればいいのか検討もつかないので、途方に暮れるしかなかった。

 

 結局どのくらいこうやっていたかは分からない。さすがにそろそろ何かしないといけないと思ったその時、左の方から爆発のような音が聞こえてきた。

「え、何!?」

 突然のことで驚いた。通行人たちも驚いたように、音のする方を向いていた。

 何が起こったかと思いきや、すぐそばの建物のガラスが割れた。そして、飛び散るガラスと一緒に街灯に照らされたのは、全身真っ黒な怪人だった。人々は悲鳴をあげながら逃げ出した。

「インサニティ⁉︎」

 それを見た瞬間、私の心臓は跳ね上がった。全身におもりが外れたような感覚が広がった。身体が戦闘モードに入る。しかし、気持ちの方はそれに追いつけなかった。

 私はその場から動けなかった。

 インサニティはそんなことはお構いなしというように、容赦なく私の目の前に迫ってきた。

「――っ!」

 インサニティが拳を突き出してくるのが目の前に見える。

 逃げるか迎え撃つか。どっちにしろ体は動かない。私の脳は最後の悪あがきと言わんばかりに回転するが、空回りした。

 私は観念した。しかしその瞬間、1人の後ろ姿が私の前に立ち塞がった。

「???」

 私は困惑した。

 それは、黒いパーカーを着た白髪の少女だった。彼女は片手でビニール傘を持ち、もう片方の手で青白く光るバリアを出し、インサニティの拳を受け止めた。

 そういえば、このあたりには街に現れたインサニティを退治する異能者たちがいるという噂を聞いたことがある。今、私の目の前にいる少女は、その噂の人なのか。インサニティと戦う異能者なんて、過去の存在だと思っていた。

「ウガァ!」

 インサニティは少女のバリアを打ち破ることができず、前方へすっ飛んだ。

 少女はハーフツインテールにした肩まであるきれいな白髪をひるがえし、こちらを向いた。街頭に照らされて光る金色の瞳が、長い前髪の隙間から私を捉えた。そして、彼女は少年のような声で言った。

「君、ちょっとこれ持っててくれない」

 私は言われるがままに傘を受け取った。

 少女は雨に濡れることもお構いなしに、インサニティの方を向いた。そして、地面を蹴って一気にインサニティとの距離を詰めた。

 インサニティは少女に蹴りを入れようとするが、少女はそれをバリアで防いだ。

 インサニティはもう一度攻撃を繰り出そうとしたが、少女の方が早かった。

 彼女は両手でバリアを出して、それを強引にインサニティに叩きつけた。そして、腕から青白く光るチェーンのようなものを出し、インサニティを拘束した。

「これでおしまいだよ」

 彼女はそう言うと、チェーンを思いっきり引っ張った。

「おりゃあああ!」

 インサニティはチェーンにきつく締め上げられたかと思うと、その身体はバラバラになった。

「ガアアア!」

 インサニティは唸り声をあげながら黒い煙のようなものを出して霧散していった。

「ふう、いっちょあがり」

 目の前で起こった一連の出来事に、私の脳は今にもフリーズしそうだった。あの恐ろしいインサニティを慣れた手つきで倒してしまう少女は強かった。

 少女はこちらに駆け寄ってきた。

「君、大丈夫だった?」

「はい」

 改めて近くで少女の姿を見てみると、彼女は私より頭ひとつ分背が高い。顔は整っているが、かわいいと言うよりはきれいと言う方が似合う、そんな様子だった。

「助けていただいてありがとうございます」

 私は頭を下げた。

「全然気にしないで。これが僕の仕事だから」

 そう言うと、少女は微笑んだ。

「これ、お返しします」

 私は傘を差し出した。

「え、別にいいよ」

「でも……」

 少女もすっかりずぶ濡れだった。

「早く家に帰りな。夜は危ないんだから」

「……」

 私は彼女の言葉に、すぐに返事できなかった。

 少女は不思議そうに聞いてくる。

「どうしたの?」

「……あの、私、家追い出されちゃって……」

 私は気まずく言った。

 少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しい笑顔を作って言った。

「なるほどね……何があったかは知らないけど、それならうち来なよ」

 突然の提案に、私は驚いた。

「えっ!?いやいやいやそれは悪いです!」

 私は全力で首を横に振った。

「まあ、たしかに急に出てきた異能者に家に来いって言われてついてくる人なんていないよね」

「まあそれは……」

「けど君、これからどこに行くつもり?」

「ええと……」

 全てを見透かすような少女の金色の瞳がこちらを見下ろしてくる。私はそれを直視できなくて、目を逸らして言った。

「そちらこそ、見ず知らずの無職ホームレス異能者を家にあげてもいいんですか?」

「僕はなんとも思わないよ」

 少女は即答した。

「ていうか、君も異能者なんだ」

「まあ……そうです」

「それなら尚更だね。君、レユアンにいる異能者の人数知ってる?」

「知らないです」

「だいたい100人くらいらしいよ。40万人中100人。」

「……出会えるだけで奇跡っていうことですか?」

「その通り。出会ってすぐに別れるのはもったいないでしょ?」

「それはそうかもしれないですけど……」

 相変わらず少女はこちらをじっと見つめる。

 もしこの機会を逃したら、2度と手を差し伸べてくれる人には出会えないかもしれない。そう考えると、少女の提案に乗るべきなのかもしれない。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「ん、決まりだね。それじゃあ行こうか」

 少女はそう言うと歩き出した。

「あの、傘を!」

「だからいいって。僕だけ傘を指してたら、良心が痛みまくる」

「いや、私だけ傘を差してたら、私が悪い人に見えます」

 私と少女はしばらく無言で見つめ合った。

 私が傘を閉じればいいじゃんと思ったとき、少女が先に口を開いた。

「そういうことなら、2人で入るしかないね」

「え」

 少女はそう言って私の真横に来た。まさかそう来るとは思っていなかった。私たちの距離は、初対面の人同士がとっていいそれではなかった。

 おまけに彼女が美人ということもあって、緊張で私の心拍数は跳ね上がった。

「僕が持つよ」

「あ、はい」

 少女がそう言ったので、私は傘を彼女に渡した。

 名前も知らない人との相合傘。私はどう言う顔をすればいいのかも何を話せばいいのかも分からず、終始無言で歩き続けた。その間、傘は微妙に私の方に傾き続けていたが、私は気づかないふりをした。


 *

 

 少女の家には割とすぐに着いた。

 ビル群から少し離れたところにある4階建てのマンションの2階の部屋、そこが彼女の家だった。

 私は部屋に入るなり風呂に入れられた。こんな絶望的な状態で暖かい風呂にありつけるのはありがたかった。しかし、あんまり長風呂をしていては少女に申し訳ないので、私はできるだけ早めに風呂から上がった。

 洗濯機の上に置いてあるバスタオルを手に取り、体の水滴を拭く。そして、服を着ようとしたとき、私はあることに気づいた。

「服ないじゃん」

 私が脱いだ服は、いつのまにか洗濯機の中でぐるぐる回っていた。

 一応背負っていたリュックに何着か入れてはいたが、おそらく雨のせいでとても着られる状態ではないだろう。それならば、私がとるべき行動は一つしかなかった。

 私は脱衣室のドアを少し開けて、その向こうにいるであろう少女に向けて話しかけた。

「すいません!」

 しばらくしたら返事が返ってきた。

「どうしたの?」

「あの、着れる服ってあります……?」

「ちょっと待ってて」

 取り敢えず服がない問題は解決しそうなので一安心した。

 ふと、洗面所の鏡に映る私の姿が目に入った。

 対して高くない背丈、怪しく光る黄色い瞳、腰まであるモサッとした夜空みたいな黒髪、左足にまとわりつく奇妙な黒い模様。我ながら人に好かれやすい容姿ではないと思う。

「おまたせ」

 少女はドアを少し開けて、白いパーカーを渡してきた。

「取り敢えず着られそうなやつ持ってきたよ」

「ありがとうございます」

 私はそれを受け取り、着てみた。もともと丈の長いパーカーなのか、単にサイズが合わないだけなのか、裾が膝まであった。

 私はその格好でリビングに出た。

 

 8畳ほどのリビングは、きれいとは呼べない状態だった。真ん中に鎮座している机には、袋入りのキャンディや本や何かの紙が散乱していた。床にも空のペットボトルが何本か置いてあったり、服が放置してあったり。

 少女は机の前のソファに座っているようだった。私は声をかけた。

「お先に失礼しました」

「じゃあ僕も風呂入ってくるよ」

 少女はそう言うと、立ち上がった。全裸だった。彼女の華奢で色白な肌と、腰から生える小さな翼が私の目に映ってしまった。私は慌てて腕で目を覆った。

「あの、なんで全裸なんですか!」

 少女は特に気にもしない様子で答えた。

「服、全部洗濯機に入れちゃったけど、すぐにお風呂入るしいいかなって」

「家にあげてもらった分際ですか、そういうのは死刑だと思います!」

「そうかなあ」

 少女は首を傾げながら脱衣所へ入って行った。私が一安心して腕を下ろした直後、少女はドアの隙間からひょこっと顔だけ出して言った。

「冷蔵庫にあるもの、好きに食べていいよ。あ、チョコケーキは絶対にダメだよ」

「はい……」

 脱衣所のドアは完全に閉まった。

 

 特にやることもないので、私はキッチンに向かった。

 小さい冷蔵庫と電子レンジと炊飯器と白い食器棚と、調理台には電気ケトルも置いてある。必要そうなものは一通り揃ったキッチンだったが、リビングに比べてやけにきれいだった。特に、コンロあたりは使った痕跡がほとんどなかった。

 取り敢えず、私は冷蔵庫を開けた。

「ええ……」

 扉の裏側に牛乳があるのと、棚の真ん中にコンビニのチョコレートケーキが鎮座している以外、何もなかった。彼女は何を思って、あの発言をしたのか。

 他人の家の冷蔵庫を開けることに対する罪悪感よりも、戸惑いの方が勝ってしまった。私はすぐに冷蔵庫を閉じて、何も見なかったことにした。


 *

 

 しばらくリビングで待っていると、少女が風呂から上がってきた。彼女は戸棚からカップラーメンを出してくれたので、それが今日の晩御飯だ。

 私と少女はリビングの机で向かい合わせになってラーメンを啜った。インスタントな暖かさが雨で冷えた身に沁みる。

 ふと、少女が口を開いた。

「そういや、お互い名前言ってなかったね」

「たしかにそうですね」

「僕は糖蘭。君は?」

「私は夜子です」

 私はそう言って、麺を口に運んだ。

 糖蘭さんは会話を続けた。

「夜子って家を追い出されたんだよね。理由……とか、聞いてもいいかな」

「いいですけど、大した理由じゃないですよ」

「どんな理由?」

 私は少し間を置いてから言った。

「……私、住んでたアパートの壁を壊しちゃって」

「それで追い出されたの?」

「そうです」

「壁壊すだけで追い出されるのはちょっと理不尽じゃない?」

「それが…… ベランダの方の壁一面ぶち抜いちゃったんです」

「え、何がどうなってそうなった」

 糖蘭さんは困惑しているようだった。

 私は説明する。

「ゴキ退治をしようとしたんですけど、熱が入っちゃって気づいたら念力で壁ごとゴキをぶち抜いちゃった……っていう感じです」

「なるほどね。たしかにそれは追い出されちゃうかも」

「ですよね……」

 壁が吹き飛ぶ瞬間が脳内にフラッシュバックする。なぜゴキ相手に念力を使ってしまったのかという後悔の念が押し寄せる。あのときの私の行動は迂闊すぎた。

 糖蘭さんは言った。

「これからどうするかとか考えてる?」

「……いや、特に。バ先の店長が大家さんの知り合いなせいで、バイトもクビになっちゃいましたし」

「なるほど、それは大変だね」

 糖蘭さんは麺を啜って、言った。

「よかったら僕と一緒にインサニティ退治をしない?」

「え」

 私の箸が掴んでいた麺がするっと逃げた。あまりに唐突で予想外の提案だった。

 糖蘭さんは続ける。

「いや、正確に言えば僕‘たち’と、だね」

「どういうことですか」

「夜子はHALFって知ってる?インサニティ退治をする異能者集団なんだけど」

「残念ながら知りませんけど……糖蘭さんはそのHALFの一員なんですか」

 糖蘭さんは首を縦に振った。

「そうそう。で、半年ほど前から人手不足に悩まされててね。元々6人いたメンバーは今は3人だけになっちゃった上に、まともに動けるのが僕しかいなくて。結構大変なんだよね」

「そうですか……けど私、あんな怪物と戦ったことないですし……」

「そりゃあ誰だって最初は初心者だからね。けど、君って結構ポテンシャル高いと思うんだよね」

「見ただけで分かるんですか?」

 私は自分の手元をチラッと見てから、糖蘭さんの方に目をやった。

「見ただけでは分からないけど、君って超能力系の異能者でしょ」

「まあ、そうですけど」

「超能力系って、他の異能と比べて火力が強かったり応用が効きやすかったりするんだよね。ついでに、気づいたら壁をぶち抜いてる時点で、僕から見たら上出来だね」

「そうなんですかね……」

 私は言葉に詰まった。

 糖蘭さんは私を家にあげてくれて、お風呂も晩ご飯も用意してくれた。もちろんそのお礼はしたいし、それがインサニティを退治することなら私は彼女と戦いたい。しかし、彼女は私を過大評価しすぎだ。あのときの彼女は強くて格好良かった。それに比べて私は何もできなかった。

 私はあんな彼女の横には立てないし、本当の自分の強さを知られて失望されるのが怖かった。

「まあ、今すぐ決めろとは言わないし、無理にやれとも言わないよ。多少の危険は伴う仕事だし、何より自分のことは自分で決めなきゃね」

「……」

「いつでも返事は待ってるよ」

 糖蘭さんはそういうと、空になった容器を持って立ち上がった。

「……はい」

 私は俯きながら返事をした。

 *

 すっかり日も昇りきった朝。私は、バタバタという物音で目を覚ました。

 私が寝ていたソファのあるリビングでは、糖蘭さんが何やら忙しそうに駆け回っている。出かける準備をしているようだった。

 私は立ち上がって、彼女に話しかけた。

「どこか行くんですか」

「まあね。時間がない、留守番は頼んだ」

 彼女はそういうと、鍵を投げてきた。私は咄嗟にそれをキャッチした。

「それ、合鍵ね。あと、何か困ったことがあればなんでも言ってね。じゃあ行ってきまーす」

「行ってらっしゃい……」

 玄関の扉がバタンと閉まった。部屋は急に静かになった。

 

 ひとり残された私は、やることがなかった。洗濯は昨夜に糖蘭さんがやっておいてくれたし、洗う食器もない。とっ散らかったリビングをきれいにしたいとは思ったが、知らぬ間に勝手に部屋をいじられて嬉しい人はいないだろう。おまけにバイトも何もないので、本当に暇だ。

 私はソファにもたれかかった。

 それにしても、糖蘭さんはよく私に留守番を任せたなと思う。今この状況で、その気になればこの家の物を盗んで逃げることだってできるのだ。もちろん私にそんなことをするほどの反社会性も勇気は無いのでやらないが、彼女のセキュリティ意識が低すぎて少し心配になった。かくいう私も、見知らぬ人にのこのこついて来ているので、人のことは言えないのかもしれない。

 

 *


 しばらくの間、私はソファに座ってボーッとしていた。

 あるとき、ふと、糖蘭さんが寝ていた部屋の中が気になった。勝手に入って褒められるようなところではないが、本人がいないので、少し覗くくらいならいいだろう。

 私はソファから立ち上がり、部屋のドアを開ける。そして中を覗いた。

 4畳ほどの部屋には、ベッドと本棚と小さい机と椅子があった。

 私は本棚が気になり、部屋に足を踏み入れた。

 そこには漫画やラノベもあったが、それと同じかそれ以上の数の難しそうな本が並んでいた。背表紙をなぞると、その大半が神秘に関する学術書や専門書のようだった。

 神秘といえば、レユアン全土に空気のように存在しており、異能者の力の根源であるということくらいは知っている。しかし、これだけの量の神秘に関する本を持っている糖蘭さんは、学者か何かなのか。

 私は背表紙の難しそうな字面を眺めるのに疲れて、ベッドの方に目をやった。

 布団はくしゃくしゃになったまま放置されていた。私はそれを直そうとしてベッドに近づいたが、枕元に水色のガラケーが置いてあるのを見つけた。きっと糖蘭さんが忘れていったものだ。

 表面には小さい画面がついており、現在時刻が表示されている。そして、2つの勾玉がついていた。ひとつは若草のような黄緑で、もうひとつは淡く青みがかった無色だった。

 私はなぜか、その勾玉が気になった。何か得体の知れないものがあるような気がした。

 そっと指で触れてみる。つるつるとした表面は、少しひんやりしている。普通のアクリルの勾玉のようだった。

 あまり他人のものにベタベタ触るのはよくない。これのことは本人が帰ってきてから言えばいいと思い、布団を直そうとした。

 そのとき、ガラケーからバイブレーションと共にサイレンのような音が鳴り響いた。

「何⁉︎」

 小さい画面には現在時刻の代わりに「インサニティ発生中」と表示されていた。

 気になった私は、ガラケーを恐る恐る開けた。画面にはここらへんの地図が映されていた。そして、地図上には青い点と赤い点が表示されていた。

 青い点はおそらく現在地だろう。なら赤い点は――

「インサニティ……」

 もしそうなのであれば、すぐにでも糖蘭さんに伝えなければならない。さもなければ、街と人々がどうなるか分からない。しかし、彼女が今どこにいるのか分からない。彼女のガラケーはここにあるので連絡も取れない。

 どうにかして糖蘭さんに伝えられないか。私の頭ではその答えは出なかった。それなら、私がインサニティを倒すしかないのか。

 私は考えた末、赤い点が示す場所に行くことにした。私は糖蘭さんのガラケーと部屋の合鍵を持ち、玄関のドアを開けた。

 外に出ると、昨夜とは打って変わって晴天だった。アスファルトはまだ少し湿っているところもあるが、大半が乾きつつあった。

 正直、インサニティのもとへ行ったところで何ができるかは分からない。しかし何もしないわけにはいかなかった。このままではインサニティが街を壊してしまう。糖蘭さんの代わりにそれを止めなければならないという小さな正義が私を動かした。

 

 *


 ガラケーの画面を頼りに街を走り回っていると、よくわからないオブジェの立つ小さな広場にたどり着いた。

「多分ここらへんなんだけどな」

 インサニティみたいな怪人がいたらすぐに分かるだろうが、インサニティも人もいなかった。

 私はガラケーに目を落とす。相変わらず、画面に「インサニティ発生中」と表示されている。

 何か間違ったのかも。もしかしたら、インサニティがいるのはここではないのかもしれない。

 私はそう思って広場に背を向けようとしたとき、後頭部に衝撃を感じた。

「うっ」

 バランスを崩した私は、前方に数メートルほど飛ばされた。

 何が起きたかは分からない。コンクリートの地面に打ちつけられて全身がズキズキ痛む。頭がぐらぐらする。

 なんとか体を起こして顔をあげると、そこには真っ黒な怪人が立っていた。インサニティだった。

 私の心臓はドクンと跳ね出し、身体だけが戦闘モードに入る。

 一度は戦うことを決意したはずなのに、いざインサニティを目の前にすれば弱い気持ちが溢れてくる。今すぐにでも糖蘭さんが来てくれないかという気持ちがよぎる。

 それでも、インサニティは容赦なくこちらに迫ってきた。

 もう一度殴られたら、次は立ち上がれないかもしれない。私は半ばヤケクソで、前方に手を伸ばし、念力を放った。

「えいっ!」

 地面のコンクリートにはヒビが入り、インサニティは吹っ飛んだ。

 糖蘭さんの言う通り、私はそれなりと強いのかもしれないと思ったが、インサニティはすぐに立ち上がった。そして、一気に距離を詰めてきた。

「っ……!」

 私は咄嗟に拳に念力を溜め、インサニティに向けて突き出す。しかし受け止められてしまった。

 まずいと思ったのも一瞬で、真っ黒な拳が迫ってきた。私は腕でガードしようとしたが、間に合わなかった。

 私の頬にストレートが直撃した。

「ぐはっ」

 私はそのまま地面に倒れた。

 痛い。口の中から血が溢れてきて、それが地面を赤くする。気持ち悪い。

 インサニティが近づいてくるのが見えた。

 立ち上がらなきゃ。

 しかし、身体に力が入らなかった。痛みと恐怖で頭が支配されて、視界が滲む。

 私は完全に選択肢を間違えた。私は異能者だ。簡単に壁を破壊できてしまうような異能者。それでも、糖蘭さんみたいに戦うことなんてできなかった。彼女ならこんなインサニティなんて秒で締め上げることができるのに。

 何もできない弱い自分が惨めだ。こんな私を糖蘭さんが見たら、やっぱり失望するだろうか。それでも私は彼女に助けてもらいたいと思ってしまった。

「糖蘭さん……」

 

 私は最後の手段として、藁を掴む思いで願った。

「助けて……糖蘭さん……」


 そのとき、横から声が聞こえてきた。

「呼んだ?」

 少年のような声だった。

 私は声のする方向に顔を向けた。

「っ!」

 そこに立っていたのは白髪の天使のような少女、糖蘭さんだった。

「どうしてここに!?」

「言ったでしょ?困ったことがあったらなんでもいってねって。……まあ、実際のところはHALFのメンバーに言われて来たんだけど」

 彼女は笑いながら、私に手を差し伸べて言った。

「よく頑張ったね」

 優しい声だった。

「……はい」

 私はその手を取った。そして立ち上がった。私はこの瞬間、痛みを忘れた。

「まだ戦える?」

「糖蘭さんとなら」

「嬉しい答えだね」

 彼女はそう言うと、不敵な笑みを浮かべて続けた。

「あいつの攻撃は全部僕が防ぐ。夜子はあいつを潰すことに集中して。僕の異能は攻撃には向いてないから」

「分かりました。けど、全部防ぐってできるんですか?」

「できるんじゃない。やるんだよ」

「ええ……なんですか……ってうわあ!」

 私が会話を終えないうちに、インサニティは攻撃をしかけてきた。しかし、その攻撃は糖蘭さんのバリアによって弾かれた。

 私は彼女の方を振り向いた。

「よそ見は厳禁だよ」

 彼女は笑いながら言う。

 またもやインサニティは攻撃を仕掛けてくる。

 私は両腕に念力をまとわせた。腕から淡い紫色の光が漏れ出てくる。私はそれでインサニティに殴りかかった。

「おりゃあ!」

 一発当てる。インサニティは反撃したが、その攻撃は糖蘭さんのバリアのおかげで私には届かなかった。

 私とインサニティはお互い殴り合った。インサニティの拳の軌道には、必ず青白く光るバリアが立ち塞がった。

 糖蘭さんは言った通り、インサニティから繰り出される全ての攻撃を防いだ。私は無我夢中でインサニティを殴り続けた。

 気がつけば、インサニティの身体には無数のヒビが入っていた。

「夜子!あと一息だ!」

 糖蘭さんはそう言うと、地面から数本のチェーンを出してインサニティを拘束した。

 インサニティの動きが封じられる。

「これでトドメだ!」

 私は念力を右腕に一極集中させた。

 そして、右手をインサニティに突き出し、念力を放った。

「おりゃあああああ!」

「アアアアアア!」

 えぐれる地面と共にインサニティの身体はバラバラになり、悲鳴をあげて散っていった。

 

「た、倒せた……」

 私は、黒い煙が消えていくのを見届けた。そして一気に緊張が解ける。私はゆっくりと糖蘭さんの方に顔を向けた。

「糖蘭さん……!」

 彼女は笑顔で言った。

「初めてでインサニティを倒しちゃうなんて。やっぱり僕の思った通りだ」

「いえ、全部糖蘭さんのおかげです。あなたが来てくれなければ、私、なんにもできないまま終わってしまうところでした」

「それでも十分すごいよ」

 やはり彼女は私を課題評価しすぎだ。しかし、私は褒められたことが嬉しかった。本当の自分を受け入れてもらえたような気がして。一度全てを失った私でも、彼女とならやり直せる、そんな気がした。

 だから、私は決めた。

「あの、糖蘭さん……」

「?」

「私、あなたと一緒に戦いたいです」

 糖蘭さんは少し驚いたような表情をした。しかし、すぐに嬉しそうに言った。

「よろこんで」

 その言葉を聞いた私の口元は自然と緩んだ。

「それじゃあこれからよろしくね、夜子」

「はい!」


 *


「痛いです糖蘭さん!」

「我慢!」

「うわああああ」

 糖蘭さんの家に帰った私は、彼女に傷の手当てをしてもらった。しかし、あまり上手ではなかった。

「絆創膏くらい自分で貼れますから」

 私は糖蘭さんから絆創膏をぶん取った。

「それならいいけど……」

 彼女は本当にお人好しだ。最初はすぐにここを出ようとしていた私だったが、結局しばらくの間は糖蘭さんのもとで暮らすことになった。

 糖蘭さんは、ふと思い出したように言った。

「そういや、僕のガラケーってどうなった?」

「あっ、それならここに」

 私は服のポケットから水色のガラケーを取り出した。あのときから入れっぱにしてしまっていた。

「勝手に持ち出してすいませんでした」

「いいよ、元はと言えば忘れた僕が悪いんだから」

 糖蘭さんはそう言いながら、ガラケーを受け取った。

「そういえばなんですけど、その勾玉ってなんですか?」

「ああ、これ?HALFのメンバーから貰ったやつだけど。これがどうかしたの?」

「いや、特にどうってわけではないんですけど、なんか気になって」

「ふーん」

 糖蘭さんは一瞬何か考えて、言った。

「夜子って霊感ある感じ?」

「多少はありますけど……それがなにか関係あるんです?」

「うーん、今は内緒」

 糖蘭さんはそう言うと、人差し指を立てた。

 (続く)

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